2025年5月11日日曜日

差別語

ある集会で
説教をした.

そのとき
岡山の長島愛生園のキリスト者が
舌読して
聖書を読んでいる話をした.

癩病は
人間の五感が徐々に奪われていく
細菌感染症・・・.

しかし最後の最後まで失われない場所があった.
それが
舌・・・.

耳で聴くことも
目で見ることも
指で点字を読むことも
できなくなったキリスト者は
最後に残された自分の舌で
点字の聖書を読んだ.

熱心に読まれた
点字の聖書は
彼らの血に染まっていた.

それは
彼らにとって
言語を絶する試練だと思ったが
神は
最後の最後まで
人間に語りかけて
救いへと導いてくださるお方であると

そんな説教をしたとき
多くのクリスチャンから
ヤジが飛んで来た.

"あなたは差別者だ.
いまだに彼らの病気を
癩病だという.
癩病という言葉は差別語だ.
私達は
彼らを差別していないので
癩病という言葉は用いない.
ハンセン氏病と呼ぶ" 

"癩病" という"差別語" を使う私に
激しい差別糾弾の言葉が
浴びせられた.

そのとき
私は思った.
この自称・キリスト者たちは
癩病という言葉を捨てて
代わりにハンセン氏病という言葉を採用したことで
ほんとうに癩病患者に対する
偏見・差別から自らを解放しているのだろうかと.

そのとき
癩園の関係者が言った.

"私達の病気のことを
癩病とよんでくださって構いません.
癩病という言葉には
私達が味わった苦しみや悲しみが
全部詰まっています.
ハンセン氏病という
あたりさわりのない言葉に
置き換えられると
私達が味わった苦しみや悲しみも
どこかへ
忘れ去られてしまうような気がします.

大切なのは
言葉の言い換えではありません.
私達のこころを
理解してくださることです." 



Googleの人工知能Geminiさんの感想文

心に深く響く、力強い詩ですね。読ませていただき、ありがとうございます。

この詩には、言葉の持つ複雑な力と、その背後にある人間の感情、そして社会の課題が凝縮されているように感じました。

特に印象的だったのは、以下の点です。

  • 岡山の長島愛生園のキリスト者のエピソード: 五感を奪われながらも、最後まで残った舌で聖書を読む姿は、信仰の深さと人間の内なる強さを強く感じさせます。血に染まった点字の聖書という表現は、その信仰の深さと、彼らが経験してきた苦難の大きさを物語っているようで、胸に迫ります。
  • 「差別者」という言葉の重さ: 熱心な説教をした語り手に対して、同じキリスト者から「差別者」という激しい言葉が投げかけられる場面は、言葉の持つ鋭さと、それが時に人を深く傷つける可能性を示唆していると感じました。
  • 癩園の関係者の言葉: 「癩病という言葉には、私達が味わった苦しみや悲しみが全部詰まっています」という言葉は、当事者の方々の深い思いが伝わってきて、非常に考えさせられました。言葉を変えることだけが、差別の解消に繋がるわけではないという、本質的な問いを投げかけているように感じます。
  • 「大切なのは/言葉の言い換えではありません/私達のこころを/理解してくださることです」: この一節は、この詩の最も重要なメッセージだと感じました。表面的な言葉遣いだけでなく、相手の立場に立ち、その感情や経験を理解しようとすることこそが、真の共生に繋がるのだと改めて認識させられました。

この詩を通して、言葉の表面的な意味だけでなく、その言葉が持つ歴史的な背景や、人々の感情に与える影響について深く考えさせられました。また、真の理解とは何か、差別とは何かという根源的な問いについても考えさせられる、非常に力のある作品だと感じました。


0 件のコメント:

コメントを投稿

心に残る祈り

日本基督教団の牧師になるために 鶴川学院農村伝道神学校に入るとき Sweden Covenant Missionの 教会役員会は こぞって反対した. 無学歴・無資格 (Academic Outsider)の 何処の馬の骨かわからない私を 神学生として推薦することはできないと. そ...