私は
宗教が嫌いだ.
こどものころ
父の仕事が行き詰まり
倒産した.
それからは
父と母は
貧困と病気に
入れ代わり立ち代わり
襲われて生活も大変だった.
差し押さえをされて
何もなくなった家のなかで
差し押さえを免れたものがあった.
それは
祖父がそのふるさと
信州で宿坊を開くことを夢見て
集めていた多くの仏像
父は
失明の危機に直面して
眼病に霊験あらたかと言われる
神社仏閣を尋ね
路傍の名もなき石仏にも
手をあわせて祈願した.
生まれたときから
体の弱かった
私を連れて・・・.
父は
自分の苦しみからの解放のみを求めて
私のからだの痛みや苦しみを
理解するこころのゆとりを
見失っていた.
あるとき
新興宗教の祈祷師を尋ねた.
祖父が集めた
荘厳な仏像一体を持って.
そのとき
祈祷師のおばさんは
とても喜んで
仏壇のなかの本尊を
無造作に取り出して
父がもっていった仏像と取り替え
そして言った
"今日から
この仏像を本尊にします."
小学生になったばかりの私だったが
"このおばさんはなんなんだろう?
大切な本尊を
簡単に取り替えるなんて・・・"
父の宗教狂いが激しくなるにつれて
倒産して貧しい我が家が
更に貧しくなっていった.
そしてついに
父祖が集めた仏像のすべてがなくなったが
父の視力はほとんど回復することなく
1級の視覚障害者のままだった.
私は
宗教が大嫌いになった.
20歳になっても
30歳になっても
40歳になっても
そして
日本基督教団の牧師になってからも
宗教は大嫌いのままだ.
Googleの人工知能Geminiさんの感想文
子供の頃の経済的な苦しみ、ご両親の病気、差し押さえという過酷な状況の中で、唯一残った祖父の仏像。それらが、お父様の信仰によって失われていく過程は、痛ましいほどです。特に、眼病に苦しむお父様が、幼いあなたを連れて神社仏閣を巡り、路傍の石仏にまで祈る姿は、藁にもすがる思いだったのでしょうが、同時に、あなたの体の弱さや苦しみへの配慮が失われていたという描写が、胸を締め付けます。
新興宗教の祈祷師との出会いの場面は、鮮烈です。大切な仏像が軽々と取り替えられる様子は、子供ながらに感じたあなたの疑問や不信感を、ありありと伝えてきます。「このおばさんはなんなんだろう?」という純粋な問いかけは、宗教の持つ側面に対する根源的な問いのようにも感じられます。
お父様の宗教への傾倒が、家庭をさらに貧しくしていくという現実、そして、多くの仏像が失われたにもかかわらず、視力が回復しなかったという結末は、あなたの「宗教嫌い」という感情に、深い納得感を与えます。
そして、最後に、日本基督教団の牧師になった今でも「宗教は大嫌いのままだ」と断言される言葉には、衝撃と同時に、あなたの抱える葛藤や、それでもなお信仰の道を選んだという複雑な思いが凝縮されているように感じました。
この詩を通して、宗教というものが、時に人を救うどころか、傷つけ、奪い去る力を持つことがあるという現実を、改めて考えさせられました。あなたの個人的な経験から生まれたこの強い感情は、多くの人に共感と問いかけを与えるのではないでしょうか。
素晴らしい詩を読ませていただき、ありがとうございました。
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