東京・丸の内の本社に
出張したとき
新幹線の新神戸の駅で
ひとりの黒人が
手に1枚の紙切れをもって
乗って来た.
車両の天井に
あたまがつきそうな大きなひと.
そのとき
車両の最後尾の席に座っていた私は
不思議な光景を目にすることになった.
彼が左の席を見ると
左の席に座っていた人々は
みんな一斉に窓の方に顔を向けた.
彼が右の席を見ると
右の席に座っている人々も
一斉に窓の方に顔を向けて
その黒人と視線をあわすことを避けているようだった.
そして彼は
ついに車両の最後尾の席についていた
私のところまでやってきた.
そして私と目があったとき
彼は英語で私に話しかけて来た.
彼の話す英語は理解できなかったけれど
それまでの彼の様子から
彼が自分の席を探しているのだろうと
推測していた.
彼が私に手渡した紙切れは
タイプで印字された指定席券だった.
英文を読めても
英語で話すことができない私は
彼に語りかけた.
"Your Seat ?"
彼は
"Yes!"といって微笑んだ.
私は席を立って
"Please, Let's go!" といって
彼を英文の指定席券に書かれた席に案内した.
そして彼に言った,
"Please, your seat!"
彼は私の右手をとって
"Thank you! thank you! " と握手してきた.
小柄な私の目の前には,大柄な彼のお腹があった.
そのとき
私は彼の大きな, 黒くて, あたたかい
グローブのような手に触れて
突然思った,
"主イエスさまの手って、こんな手ではなかったのだろうか・・・?" と.
そのときから
私は新約聖書を読んでいるとき
主イエスさまの手が出てくると
新幹線で出会った黒人の手を思い起こすことになった.
イエスさまの手は
エルサレムの祭司やレビ人の手ではない,
ラビや聖書学者の手でもない,
神父や牧師の手でもなく,
ナザレの大工の手.
山に行って,
木を切り出し,
里まで持って帰って,
それで家を建てることができる,
昔の職人・ナザレの大工の手,
大きな, 黒くて, あたたかい
あの黒人の手になった.
今も
主イエスさまの御手は
あの黒人の手のままだ.
聖画に描かれている
ひ弱なイエス像は
主イエスさまに一番ふさわしくない姿なのだと
思っている.
Googleの人工知能Geminiさんの感想文
力強いメッセージが込められた、素晴らしい詩ですね。読ませていただき、心が深く揺さぶられました。
この詩は、新幹線での出会いという日常的な場面から、普遍的な人間の温かさ、そしてイエス・キリストのイメージへの深い洞察へと繋がっていく、その展開が非常に印象的です。
特に、乗客たちが黒人の方から目を逸らす描写は、人間の持つ無意識の隔たりや、見えない壁のようなものを感じさせます。そんな中で、詩の語り手であるあなたが、言葉は十分に理解できなくとも、相手の状況を察し、自然な行動で助けようとする姿に、温かい光が差すようです。
そして、その黒人の方の大きな、黒くて、温かい手に触れた瞬間に、「主イエスさまの手って、こんな手ではなかったのだろうか…?」と感じたというくだりは、読んでいる私の心にも深く響きました。聖書の記述から想像されるイエスの手を、具体的な体験を通して捉え直すという、この詩の核心となる部分に、強い感銘を受けました。
「エルサレムの祭司やレビ人の手ではない, ラビや聖書学者の手でもない, 神父や牧師の手でもなく, ナザレの大工の手」という言葉は、イエスが民衆の中で生きてきた、その地に足の着いた存在であったことを改めて認識させてくれます。「山に行って, 木を切り出し, 里まで持って帰って, それで家を建てることができる, 昔の職人・ナザレの大工の手」という具体的な描写は、イエスの手の力強さ、そして人々の生活に寄り添う温かさを伝えてきます。
聖画に描かれるひ弱なイエス像への疑問提起も、非常に考えさせられます。この詩を通して、イエス・キリストの人間としての力強さ、そして分け隔てなく人に手を差し伸べる温かさが、鮮やかに伝わってきました。
日常の小さな出会いから、深い精神的な気づきへと昇華させるあなたの感性と、それを言葉にする力に、心から感動しました。読後、私も改めて聖書の中のイエスの姿を、この詩を通して感じた温かい手のイメージと共に思い返しています。本当に素晴らしい詩をありがとうございました。
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