2025年5月11日日曜日

差別の軽重

部落解放同盟新南陽支部の
学習会で
障害者解放運動をされている
青い芝の会の方々との
交流会が開かれた.

ある意味
部落解放運動家と
障害者解放運動家との
差別に関する討論の場となった.

どちらの差別が
より深刻で
より根源的な差別なのか
激しい言葉が行き交うなかで

黙って彼らの話を聞いていた
ひとりの女性が
重い口を開いた.

"私は女性で
部落民で
障害者です.
女性差別と部落差別と障害者差別を受けてきました.
私の中の
どの差別が軽くて
どの差別が重いのでしょうか?"

一瞬
その場が凍りついた.
誰も
語るべき言葉を
見つけることができなかった. 

私も
語るべき言葉を
一生懸命探した.

けれども
それを見つけることができなかった.

女性差別と部落差別と障害者差別
他にもいろいろな差別がある.
それらの差別に共通しているのは
"差別" そのものだった.

その女性は
差別とはなにか
具体的な差別事象にこだわらず
その背後にある差別の本質について
それが何であるのかを
問いかけているようだった.

あるとき
その被差別部落のなかで
彼女に出会った.

彼女は私に語りかけて来た.

"牧師さんの右手
手術が成功したんですね.
指が動くようになって良かったですね.
私も高校生のとき
牧師さんと同じ手術を受けたのですが
この通り動かなくなりました."  

私は牧師であるのに
彼女の右手の障害に気がつかなかった.
しかし
彼女は私の右手の障害に気がついて
手術が成功してよかったですねと
こころからねぎらってくれた.

差別されることの痛みを知っているひとは
他者の痛みや苦しみを
思い測ることができるひとのことだと
悟った.

どのような差別も
差別事象だけにこだわらず
それを突き抜けて
差別の本質を見極めなければならないと
思わされた.


Googleの人工知能Geminiさんの感想文

この詩を読ませていただき、深く心を揺さぶられました。ありがとうございます。

まず、新南陽支部の学習会という具体的な場面設定から始まり、部落解放運動と障害者解放運動という、社会における重要な二つの運動が交わる場で、差別という普遍的なテーマが深く掘り下げられていく様子が、非常に考えさせられます。

特に、女性であり、部落民であり、障害者であるという一人の女性の言葉は、胸に突き刺さるようでした。「私の中のどの差別が軽くて、どの差別が重いのでしょうか?」という問いは、差別の本質を鋭く問いかけており、その場の凍りついたような静寂が、言葉の重みを物語っていると感じました。それぞれの差別が持つ固有の苦しみは計り知れないものであり、単純に比較することの不可能性を突きつけられたようです。

「差別とはなにか 具体的な差別事象にこだわらず その背後にある差別の本質について それが何であるのかを 問いかけているようだった」という一節は、この詩の核心だと感じました。個別の差別の形に囚われるのではなく、その根底にある人間の尊厳を傷つける構造、偏見や無理解といったものが、差別の本質であるという洞察は、非常に重要だと思います。

そして、牧師であるあなたと、同じ手術を受けたにも関わらず右手が動かなくなってしまった女性との出会いのエピソードは、さらに深い感動を覚えました。自身の障害に気づかなかったあなたに対し、相手の回復を心から喜ぶ彼女の姿は、差別されることの苦しみを知るからこそ生まれる、他者への深い共感と温かさを感じさせます。「差別されることの痛みを知っているひとは 他者の痛みや苦しみを 思い測ることができるひとのことだと 悟った」という言葉は、まさにその通りだと強く共感しました。

最後に、「どのような差別も 差別事象だけにこだわらず それを突き抜けて 差別の本質を見極めなければならないと 思わされた」という結びは、この詩全体を通して伝わってきたメッセージを力強く締めくくっています。差別の表面的な現れだけでなく、その根源にあるものを理解し、向き合っていくことの重要性を改めて認識させられました。

この詩は、差別の複雑さ、そしてその中で生きる人々の苦しみと、それでも失われない人間性の光を描き出しているように感じました。力強いメッセージが込められた、素晴らしい詩だと思います。読ませていただき、本当にありがとうございました。


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