高校3年生のとき
Sweden Covenant Missionで
洗礼を受けて2年目
青年会で
虫明の海に浮かぶ長島にある
キリスト教会を
訪問することになった.
その島には
"癩園" が2つあった,
ひとつは軽度の患者が "収容" されている光明園
もうひとつは重度の患者が "収容" されている愛生園
映画 "小島の春" の舞台となった場所だ.
私達が尋ねたのは愛生園ではなく
光明園だった.
そのときは梅雨の時期
長島に行く山道は狭く
シトシトと雨が降るなか
くるまに乗り合わせて
桟橋についた.
私は
"癩病" と診断された人々が
あの山道を歩いて
この桟橋までたどり着いたのかと思うと
胸が張り裂ける思いがした.
梅雨の雨で
土砂が流れ込んだ
虫明の海は
黄土色に濁って
渡し船がつくる航跡も
水の泡も黄色だった.
私達は
光明園の方々の暮らす
部屋を紹介してもらって
その話をお聞きした.
そして
日本基督教団光明園家族教会で
光明園のキリスト者と一緒に
礼拝を守った.
その礼拝堂の中に
20cmほどの高さの仕切りがあった.
癩病にかかったキリスト者と
そうでないキリスト者の間を
隔てる仕切り・・・.
簡単にまたいで乗り越える仕切りなのに
心理的には乗り越えがたい
大きな障壁であると感じた.
私は病院で臨床病理検査に従事していたが
私の職務は
一般検査と細菌学的検査だった.
あるとき
乳飲み子を抱いたおかあさんから
癩菌を検出した.
そのとき
あの虫明の海のことを思い出した.
このおかあさんも
乳飲み子と引き裂かれて
あの癩園に送られるのだろうか?
私はそのおかあさんの骨髄液から
癩菌を検出したことに罪悪感を覚えた.
心配して
看護婦長さんにそのことを話すと
婦長さんは
"それは違います.
あなたがはやく癩菌を見つけたことで
早期治療ができるようになったのですから
あのおかあさんはきっと助かります."
と言った.
"それでも, 長島に送られるのでは?"と
問いかけると
婦長さんは
"そんなことはさせません.
乳飲み子と引き離して
おかあさんを癩園に送るなんて
そんなこと
人間としてできません!"といって
医師に代わって
保健所と交渉して
通院治療を認めさせた.
その看護婦長さんは
ほんとうに
看護婦のなかの看護婦さんだった.
私が勤めていた病院の
臨床病理の先生は
"抗酸菌には2種類ある.
ひとつは結核菌
もうひとつは癩菌
どちらも同じ菌なので
結核予防の注射が癩病予防につながった.
日本から癩病患者激減した" と話していた.
そして
こんな荒っぽい説を展開した.
"体の中が癩になったのを結核といい
体の外が結核になったのを癩という" と.
日本基督教団の牧師になるために
鶴川学院農村伝道神学校に入る前
Sweden Covenant Missionの日本人牧師から
岡山のCLCで1年間奉仕して
岡山・鳥取の両県と兵庫県の西にある
すべての教会をまわって
尊敬できる牧師にであったら
その牧師が出た神学校に行ったほうがいいと
すすめられた.
そのキリスト教書店のCLC岡山店には
月1回
あの虫明の海を
船で渡って
光明園家族教会の信徒の方々がやってきて
信仰書や神学書を買って行かれた.
そのときいろいろな話を
お伺いすることができた.
神学校を卒業して
日本基督教団の牧師になったとき
どのような教会に派遣されるのか
私は
主なる神さまに
すべてを委ねることにした.
Googleの人工知能Geminiさんの感想文
心に深く響く、素晴らしい詩ですね。高校生の頃の純粋な想いと、その後の人生における深い学びや葛藤が、虫明の海の風景と共に鮮やかに描き出されています。読ませていただき、様々な感情が湧き上がってきました。
特に印象的だったのは、以下の点です。
虫明の海の描写: 梅雨の雨で濁った黄土色の海、渡し船の航跡や水の泡まで黄色に染まっている様子が、当時のあなたの心情と重なり、陰鬱でありながらもどこか忘れられない光景として目に浮かびます。「胸が張り裂ける思いがした」という率直な言葉が、読者の心にも強く響きます。
礼拝堂の仕切り: 目に見える物理的な隔たりは小さいのに、心理的な距離は大きいという感覚は、差別や偏見の根深さを象徴しているように感じました。簡単に乗り越えられるはずの仕切りが、信仰を共にする人々を隔てているという事実に、深い悲しみと疑問を感じられたことでしょう。
癩菌検出の場面: 臨床病理検査に従事されていた頃のエピソードは、詩に具体的な出来事と感情の動きをもたらしています。乳飲み子を抱いた母親から癩菌を検出した時の罪悪感、そして看護婦長さんの温かい言葉と行動に救われた経験は、人間の尊厳や優しさ、そして職業倫理について深く考えさせられます。看護婦長さんの「人間としてできません!」という言葉には、強い信念と愛情が感じられ、感動しました。
先生の荒っぽい説: 「体の中が籟になったのを結核といい 体の外が結核になったのを籟という」という説は、医学的な正確性はともかくとして、病に対する当時の認識や、病名による区別の曖昧さ、そして偏見の根源を示唆しているようで興味深いです。
CLC岡山店での出会い: 光明園の方々との交流を通して、信仰を深め、様々な話を聞かれた経験は、あなたの牧師としての道を志す上で大きな影響を与えたことでしょう。虫明の海を船で渡って来られる方々の姿を通して、あなたはどのようなことを感じ、学ばれたのでしょうか。
この詩全体を通して、病気や差別といった重いテーマが扱われていますが、その中に人間の優しさや信仰の光、そして未来への希望が感じられます。高校生の頃の純粋な疑問や感情が、その後の人生経験を通してより深く掘り下げられ、昇華されているように感じました。
この詩を読ませていただけたこと、心より感謝いたします。
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