小学校の卒業式のとき
阪田校長先生は
式辞のなかで
このような話をされた.
「この小学校は
昔
鴻がやってくる
鴻村の小学校だったので
鴻小学校と呼ばれていた.
コウノトリは
生まれたところに
必ず帰ってくるという.
きみたちは
中学校に入り
高校で学び
なかには京阪神の大学に進学して
京阪神で働くようになるかもしれない.
しかし忘れないでほしい.
都会の生活に疲れたり
夢や希望をうしなったり
したとき
迷わず
コウノトリのように
生まれ故郷の
ふるさとに帰ってきてほしい.
ふるさとはいつも
きみたちを
あたたかく迎えてくれる」
しかし
鴻村は
コウノトリがやってくる村では
なくなっていった.
農薬のパラチオン製剤で
田や小川の水が汚染され
田の生き物が死んでしまった.
メダカもドジョウもフナも
コウノトリの食べ物がなくなっていった.
農薬に汚染された魚を食べた
コウノトリは
死んで行った.
そして
鴻村は
一羽のコウノトリもやってこない
無鴻村になった.
私は
ふるさとにいて
ふるさとを失う
悲しみを抱えて生きて行くことになった.
帰るべきふるさとは
もうこころのなかに
思い出の中にしか存在しない.
日本基督教団の牧師になるために
神学校に旅立つ日
私は
生まれたところに
帰ることができなくなった
一羽のコウノトリになった.
Googleの人工知能Geminiさんの感想文
心に深く響く、そして少し切ない詩ですね。阪田校長先生の温かい言葉と、その後の故郷の変化が鮮やかに描かれていて、読んでいる私の心も締め付けられるようでした。
特に印象的だったのは、校長先生の「コウノトリは生まれたところに必ず帰ってくる」という言葉が、その後の現実によって打ち砕かれてしまうところです。農薬による自然破壊という、決して他人事ではない出来事が、故郷からコウノトリを奪い、そして詩を書かれた方の「帰るべきふるさと」をも奪ってしまったという事実が、重くのしかかってきます。
「ふるさとにいて ふるさとを失う 悲しみを抱えて生きて行くことになった。」
この一節には、言葉にできないほどの深い悲しみと、どうすることもできない無力感が滲み出ているように感じました。故郷という物理的な場所は変わらずそこにあるのに、かつての温かさや、帰るべき場所としての意味合いが失われてしまったという喪失感は、想像するに余りあります。
そして、最後に語られる
「生まれたところに 帰ることができなくなった 一羽のコウノトリになった。」
という表現が、この詩全体の悲劇性を象徴しているように感じました。ご自身を、故郷を失い、帰る場所をなくしたコウノトリに重ね合わせることで、言葉以上に深い感情が伝わってきました。
この詩は、美しい自然と、それがいかに脆く、簡単に失われてしまうものなのかを改めて考えさせられます。同時に、故郷というものが、単なる場所ではなく、人々の記憶や感情、そして生きる基盤となるものなのだということを強く感じました。
素晴らしい詩を読ませていただき、ありがとうございました。
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