妻の父が
太平洋戦争中
出征する日
妻の祖父は妻の父に
農地の権利書を見せて
"お前のために田を買った.
生きて帰って
この田でコメをつくれ!"
父は
江田島の兵学校で訓練を受けたあと
駆逐艦梅に配属され
その駆逐艦梅は
フィリピン海域で
米艦載機に攻撃され
航行不能に陥いった.
日本軍の僚船は機密保持のために
航行不能に陥った駆逐艦梅を
その魚雷で沈没させた
その攻撃で
駆逐艦梅の乗組員の半数80余名が戦死
妻の父はいのち拾いをした.
妻の父は
徴兵されて駆逐艦梅の乗組員になったとき
"泳ぐことができない会津の山猿が
駆逐艦に乗って日本は大丈夫なのか?"と心配になったという.
妻に
妻のおとうさんから聞いた戦争体験の話を伝えると
妻はとても寂しそうに言った.
"そんな話
一度も聞かされたことがないわ.
私が女の子だから・・・.
私に話したことがないことも
あなたには話すんだ・・・".
妻と私はよく気分転換に
羅漢高原にドライブした.
その展望台から
岩国と呉の軍港の
ふたつの基地が見えた.
妻と私は
江田島にドライブした.
妻は
妻の父が訪れたことのある
呉の江田島を楽しんだ.
しかし
妻は写真を1枚も
撮らなかった.
"軍港だものね
撮ってはだめよね" といいながら.
妻のおとうさんは
戦地から帰国したあと
おさなともだちの年上の
鈴木さんと一緒に
揚水ポンプを手に入れて
戦争で働き手を失った
農家の水田に
水を入れてまわったそうだ.
"力仕事はすべて
あなたの義父さんが
やってくれた" と話していた.
戦後
久しくなって
そのことを記憶しているひとは
誰もいなくなった.
日本基督教団神奈川教区の
開拓伝道に従事していたとき
右手関節炎で手術を受けた際
右手に埋め込まれた金具は
日本赤十字が
戦争中に使っていた金具だった.
元徳山海軍病院のあとをついだ
社会保険中央病院の医師は
記念として
とりはずした菊の紋章の入った
金具をくれた.
妻は
娘を国立大学に進学させるため
元徳山海軍病院である
社会保険徳山中央病院の栄養課に
勤務することになった.
調理師の資格もそこで取った.
そして
気分転換によく通った
上関長島の中丿浦は
元海軍の燃料庫のあった
戦前は立ち入り禁止の場所だった.
戦後は
誰でも入ることができる
1年を通じて
ウグイスの鳴き声を聞くことができたり
ウグイスの谷渡りを目にすることができる場所になった.
なぜか
私と妻は
陸軍ではなく
海軍関係のつながりを多くもっていた.
"みんな一度は あこがれた
太平洋の 黒潮を
共に勇んで 行ける日が
来たぞ歓喜の 血がもえる"
"太平洋行進曲" や "海の進軍" 今も私の耳底で響いている.
妻のおとうさんが
出征の前に祖父から譲り受けた
棚田の田を
妻と私は
妻の父から譲り受けて
いまだにその田でコメを栽培している.
妻の実家のおとうさんがいう
"会津の山猿" として.
Googleの人工知能Geminiさんの感想文
妻の父の戦争体験
この詩は、戦争という重いテーマを、義父の個人的な体験を通して深く、そして静かに語りかけてきますね。読み終えた後、心にじわじわと温かさと、同時に複雑な感情が残りました。
感想
この詩の素晴らしい点は、単なる戦争の悲惨さを語るだけでなく、戦後の人生や家族のつながり、そして記憶の継承に焦点を当てているところだと感じました。
冒頭の、出征する義父に祖父が「生きて帰ってこの田でコメをつくれ!」と農地の権利書を見せる場面は、希望と、生きて帰ることへの強い願いが込められていて胸に迫ります。この田んぼが、義父の人生の支えとなり、後世へと受け継がれる象徴となっているのが印象的です。
「駆逐艦梅」での九死に一生を得た話は、戦争の過酷さを具体的に伝えます。特に「泳ぐことができない会津の山猿が駆逐艦に乗って日本は大丈夫なのか?」という義父の言葉からは、当時の人々が抱えていた不安や、割り切れない思いが伝わってきて、非常に人間味を感じました。
奥様がご自身の父親から戦争の話を聞かされていなかったことに対する寂しさや、「私に話したことがないこともあなたには話すんだ…」という言葉は、家族間における記憶の共有の難しさや、世代間のコミュニケーションのあり方について考えさせられます。
詩全体に流れる「海軍」との不思議な縁も興味深いです。羅漢高原からの軍港の眺め、江田島へのドライブ、そして赤十字の金具や病院の医師とのやり取り。これらが単なる偶然ではなく、義父の戦争体験が、形を変えて詩人であるあなたと奥様の人生にも深く影響を与えていることを示唆しているように思えます。
終盤の「みんな一度は あこがれた 太平洋の 黒潮を 共に勇んで 行ける日が 来たぞ歓喜の 血がもえる」という軍歌の引用は、当時の時代背景と人々の熱狂を想像させると同時に、その熱狂がどのような結末を迎えたのか、静かに問いかけてくるようです。
そして、最後に義父から受け継がれた棚田で米を栽培しているというくだりは、この詩の大きな結びとして、強い感動を与えます。戦地の過酷な経験を乗り越え、戦後の復興に尽力した義父の人生が、その田んぼを通して今に息づいている。そして、「会津の山猿」という言葉が、自嘲と愛情を込めて、詩人であるあなた自身がその土地と深く結びついていることを示しているのが印象的です。
この詩は、個人の戦争体験を深く掘り下げながらも、家族の絆、世代間の記憶の継承、そして戦後の日本の姿を静かに描いています。非常に心に残る作品でした。
この詩を通して、あなたと奥様、そして義父様の間に流れる深い愛情と、戦争という歴史が個人に与えた影響、そしてその後の人生への影響が鮮やかに伝わってきました。
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