2025年6月26日木曜日

心の狭さ

日本基督教団西中国教区の
山口のちいさな教会の牧師をしていたときのこと.


妻が話しかけてきた.
"あなたゴミ捨て場に平凡社の百科事典が捨ててある.
拾ってこようか?"

私は
"もしかしたらただ
一時的に老いているだけかもしれないよ.
夕方になっても誰も取りに来なければ
もらうことにしよう."  と答えた.

さらに次の朝
"あなたゴミ捨て場に本箱が捨ててある.
もらってこようか?"という.

それで
妻と私は本箱もいただくことにした.

そしてさらに
さらに次の夜
妻が また箱が捨ててあるというので
ふたりでとりにでかけた.

礼拝堂の明かりの前まで
持って帰ると
それは仏壇だとわかった.
"仏壇を捨てるひとがいるの?
普通は廃棄するときは
ゴミ箱に捨てるのではなく
焼き捨てるのでは?"といいながら
その仏壇を元の場所に戻した.

その夜
私は夢を見た.
黄金に輝く雲にのって
釈迦がやってきて
"私を
あなたが牧師をしている
教会の信徒にしてください"と
語りかけてきた.

そのとき
私は
"お釈迦さんを
キリスト教会の信徒として
受け入れることはできません."と
無碍もなく断った.

その夢の話を
妻にすると
妻は言った.
"あなた
こころが狭いのね.
たとえお釈迦さんでも
受け入れてあげたらよかったのに".

そのとき
私は
私のこころの狭さを反省した.

あるとき
妻と二人で
長州藩の家老たちの代々の墓地のある
曹洞宗の寺を尋ねた.

その寺の住職は
山口県立大学の学長をされている方で
その方と話をする機会があった.

その方は私に言った,
"あなたは変わったひとですね.
仏教の僧侶である私に
仏典を引用しながら
'差別なきこころ
それがほとけの浄土である'と
反差別の説教をされる.

この寺の檀家で
親に反対されても洗礼を受けて
クリスチャンになった
娘さんがなくなって
両親から私に
この寺でその娘さんを
キリスト教式で弔ってほしいと依頼され
とても困ったことがある.

しかし
仏典を読んでいる牧師さんなら
これからは同じような事例に接すると
この寺で
あなたにキリスト教の葬儀をしてもらうことにしよう" と.  

その日はやってくることはなかったが,
お釈迦さんの入信を拒否して
自分の心の狭さを痛感した私の中に
仏教や僧侶に対する姿勢に変化が生じた.

江戸時代
当時の司法警察官であり
キリシタン弾圧にかかわっていた
穢多役・非人役の旦那寺である
浄土真宗の寺に出入りして
被差別部落の歴史
穢多寺の歴史を調べることに抵抗感はなくなった.

私は
彼らの語る言葉に
耳を傾けることができた.
同和問題と取り組む宗教者の
良心とその闘いを知ることになった.

私は
どのような宗教の宗教者とであっても
日本基督教団の牧師であり
聖書信仰を生きている私の
Raison d'être を見失うことなく
彼らと関わりと対話を持つことができるようになった.

私は
釈迦の夢を再び見ることはなかった.

もちろん
私は夢の中で
聖書の主なる神さまも
主イエスさまも
一度もみたことがない.



Googleの人工知能Geminiさんの感想文

れは大変興味深く、深みのある詩ですね。読ませていただき、さまざまなことを考えさせられました。

感想

この詩は、一人の牧師の内面的な変化と成長を、具体的なエピソードを交えながら率直に描いています。特に印象に残った点をいくつか挙げさせていただきます。

日常からの気づき

平凡社の百科事典や本箱、そして仏壇といった「ゴミ捨て場に捨てられた物」を巡る妻とのやり取りが、心の狭さに気づくきっかけとなっている点が秀逸です。日常のささやかな出来事から、人の心のあり方について深く考えるようになる過程が、とても人間らしく描かれています。特に、仏壇を元の場所に戻す場面は、牧師としての信仰と、他宗教の対象物に対する戸惑いがリアルに伝わってきました。

釈迦の夢と心の狭さ

最も心を揺さぶられたのは、釈迦がキリスト教会の信徒になりたいと申し出てきた夢を、牧師が無碍もなく断ってしまう場面です。そして、それを聞いた奥様の「あなた こころが狭いのね。たとえお釈迦さんでも受け入れてあげたらよかったのに」という一言。この一言が、牧師自身に「心の狭さ」を自覚させる決定的な瞬間として描かれているのが素晴らしいです。読者もまた、この牧師の心の葛藤と、それに続く反省に深く共感させられます。

宗教間の壁を越える試み

釈迦の夢をきっかけに、牧師の心境に変化が生じ、仏教や僧侶に対する姿勢が変わっていく過程が感動的です。特に、曹洞宗の住職との対話のエピソードは、宗教の壁を越えた相互理解と協力の可能性を示唆しており、現代社会において非常に重要なメッセージを含んでいると感じました。住職が「仏典を読んでいる牧師さんなら、これからは同じような事例に接するとこの寺であなたにキリスト教の葬儀をしてもらうことにしよう」と語る場面は、宗派を超えた人間的な信頼関係が芽生えていることを感じさせ、温かい気持ちになりました。

同和問題への視点

さらに、被差別部落の歴史や穢多寺の歴史を調べることに抵抗感がなくなったという記述は、牧師の視野が広がり、社会的な差別問題に対しても積極的に向き合うようになったことを示しています。これは、信仰が内向きなものに留まらず、社会的な課題解決に貢献する力を持つことを教えてくれます。

Raison d'êtreの再確認

最終的に、「どのような宗教の宗教者とであっても、日本基督教団の牧師であり聖書信仰を生きている私のRaison d'êtreを見失うことなく彼らと関わりと対話を持つことができるようになった」という言葉で締めくくられているのが、この詩全体のメッセージを力強く象徴しています。自己の信仰を堅持しつつも、他者を受け入れ、対話することの重要性を再認識されたのですね。

全体として、この詩は信仰と人間性、そして他者との関わりについて深く考えさせる力を持っています。ご自身の内面をこれほど率直に、かつ詩的な表現で描き出されたことに感銘を受けました。

この詩は、牧師としての生き方、あるいは信仰を持つ者が他者とどのように向き合うべきか、といった問いを読者に投げかけているように感じました。素晴らしい作品を共有していただき、ありがとうございました。 

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